手塚治虫のブッダ ー赤い砂漠よ!美しくー 《心が清らかになる類を見ない一作》
映画の点数…15点
ポスターの点数…20点
噂に名高い名作・迷作
最近までデビルマンや少林少女に追いつけ追い越せとばかりに評判をぐいぐい上げてきていた印象の【手塚治虫のブッダ】。
三部作構想で今のところ二部公開されているのですが、三部はどうなったのでしょうかと気になるところですが、自分で調べる気は全くないのでよく分かりません。
残念ながら今作はデビルマン達レジェンドを抜き去ることは出来ないようで、いつか自然と人々の記憶から薄れ去って行くような気がしています。
それでは少し寂しい気もしたので記録的におさらいしてみました。
本ブログのテーマでもある映画ポスターとからめてお話しようと思います。
ワースト映画の条件とは
別に僕は【手塚治虫のブッダ】をワースト映画とは一言も申し上げておりませんが、ワースト映画という称号を手にするにはいくつかの条件が必要になってきます。
一例ですが
- 脚本のつじつまが合っていない
- 役者の演技がひどい
- 「やりたいこと」と「やるべきこと」を間違っている
- 監督が何も考えずに作っている
- 興行収入的に一定の成果をあげている(多くの観客が見ている)
- ホームラン級の珍シーンがある
などですね。
【手塚治虫のブッダ】も惜しいところまではいっているのですが、特に「ホームラン級の珍シーンがある」という点において他の作品に遅れをとってしまいました。
やはりレジェンドになりたいのであれば名言や名シーンの一つくらい持っておく必要があります。
例えばデビルマンにおける「プジョーのオープンカーで登校するシーン」や、少林少女における「キラキラと解脱するラストシーン」などですね。
【手塚治虫のブッダ】もいくつかのヒットはあったと思いますが、上には上がいるということを思い知ったのではないでしょうか。
映画の感想
まず僕の映画に対する予備知識として、漫画のブッダは全巻読んでいます。
ただし、読んだのが10年くらい前なので忘れていることも多々あります。
手塚治虫作品も、有名どころは一通り読んでいると思います。
本来の仏教に対する知識はほとんどありません。
あと、声優を務めた堺雅人さんの大ファンです。
そのくらいですかね。
そんな僕が観た映画の感想は
「まずいのは分かるが、吐き出すほどでもない」でした。
観ている間中、ずーーーっとまずい料理を食べている気分なのですが、何もテレビをぶち破ってキレるほどでもないというか。
とりあえずは全部見ちゃえるくらいの出来ではあると思うんですよね。
まぁ二度とは観ないけども。
とにかく脚本に問題があると思っていて、「漫画の一部分は残す」ところと「漫画から変える」ところがもうグッチャグチャで。
それを特に工夫もなしに映画化しちゃってるもんだから「今、何が語られているのか全く分からない」という事態に陥りっぱなしというか。
ブッダは漫画が開始されてしばらく主人公が登場しない漫画なのですが、そのあたりの説明が本当に何もされないまま映画化しちゃったのが原因だとも思うんですけど。
普通に観てたら「これは誰なんだろう。。。?」と思ったままのキャラクター達がずーーーっとウロウロしているだけ。
「今、何を見せられているのか」が分からない映画がいかに退屈なのかよく分かりました。
退屈、ゆえにヒットがない
ここまで退屈だとワースト映画という極楽浄土まであと一歩と言いたいところなのですがそうもいかない。
退屈ゆえに特にヒットらしいヒットがないままなんですよね。
僕がかつて怒り狂った映画に「少林少女」「ガッチャマン」「ギャラクシー街道」「デスノート全般」などがあるのですが、そういう怒りは特にないわけです。
劇中、堺雅人さんがセリフではっきりと「心が清らかになるようだ」と言っていましたが(こういう言葉だったかはいまいち覚えていないし、間違ってても反省もしませんが)、まさに僕も心が清らかになったんですよね。
「そうだよね、怒ってもしょうがないよね。戦争とかするよりもいいもんね」という世界平和を訴えるメッセージだったに違いありません。
ですが、おかげで「後年にわたって名を残す。ブッダのように」という映画にはなり損なった印象ですね。
非常におしいことをしました。
ポスターの感想
ポスターもまた、映画とほとんど同じです。
レイアウト、フォント、タイトル、キャッチコピー、キャラクターデザイン、すべてにおいて低レベルです。
何故このようなことになったのでしょうか。
デザイナーである僕からすると「いくらなんでも、デザイナーがここまでひどいものを作るとは思えない」という印象なんですよ。
想像するに
デザイナー「ポスターできました!はぁっはぁっ…」
偉い人「うーん、なんかもっとブッダをデカくのせようよ」
デ「ブッダをでかくですか・・・?」
偉「そう、あと手塚治虫ってのをもっとデカく分かりやすく」
デ「でも、手塚治虫感ってむしろ無いですよね。。。」
偉「そういうことはどうでもいいんだよ、じゃ、あと二時間後に会議あるからうまいことまとめておいてね」
デ「二時間・・・??」
というようなやりとりがあったのではないかと。
そうじゃないならこんなことにはならなかったのではないでしょうか。
僕はデザイナーを信じたい。
キャッチコピーもひどいですよねー。
「あらゆる生き物から誕生を祝福された男がいた」→そういう物語ではないでしょう。
「許されぬ恋と望まぬ戦い」→そういうぬるいこと言ってる間に相当数の人が死んだぞ。
もしかしたら広告制作側は一切映画を観ずに作ったのかも知れませんね。
まとめ
映画もポスターも、どちらも飛び抜けた部分のない作品となってしまいました。
自信があるのですが、僕はこの映画を一年後には全て忘れているでしょう。
少林少女やガッチャマンは、不思議とほとんどのシーンを覚えているのです。
自分から湧き上がってくる怒りの熱によってフィルムが体内に張り付いてしまったのでしょう。
その怒りを感じなかったこの作品は、そう遠くない未来、人々の心にそっと寄り添いながらその生涯を終える清らかな光となっていくと思われます。
それでは、また。
↓ 面白いと思ったらクリックください!励みになります!