映画のように平面デザイン

年間200本映画を観る地方グラフィックデザイナーが、色んなものを平面デザインでとらえてみます

アナと雪の女王2 《さすが。及第点は楽々と越えてきた》

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映画の点数…82点
ポスターの点数…85点

 

※注意!!ネタバレあり!!


今作に関しては全編ネタバレがあります。
良かったら映画を実際に観てから読んでくださいね。

 

偉大な作品の続編


こんにちは、グラフィックデザイナーのピースマイルです。


今回取り上げる映画はアナと雪の女王2》です。


社会現象となった前作の続編が発表されたとき「やっぱりか…やめとけばいいのに」という感情が先にやってきました。


同じく偉大な作品であるライオンキングやリトルマーメイドやトイストーリーでさえ二作目はアレな出来だったのを観てきたので、ディズニーは決して二作目を作るのが得意な会社ではないという印象だったのです。


ましてやアナ雪、一作目で完結した話でもあるしその後スピンオフまで制作されています。
(特に“家族の思い出”の方は色々と良くない点も目立ちました)


ハードルがあまりにも高すぎる棒高跳び


実際にはどうなったのか。。


結論としては「前作には遠く及ばないが、及第点は軽くこえてきた」という感じでしょうか。


ハッキリ言っちゃえば「Let it go」という名曲が無いアナと雪の女王なんですよね。


曲の力に頼らずに映画を観ていくとなると、色々とマイナス点は見つかるけど、でもまぁやっぱり魅力的な映画だなって感じでしょうか。

映画の良かった点


まず前作でもすでにすさまじいレベルだったビジュアル表現がさらに加速していました。


具体的には幼少期のアナとエルサの表現。


実に感情豊かに動き回るアナと、親の顔色を慎重にうかがうエルサの表情の変化。


もう単純に「か、かわいすぎる!!」と思いますね。


等身が人間と違うにも関わらずもはや生きているとしか思えないレベルでしたね。


トイストーリー4の時にも同じ事を思ったんですけど、もはやエルサやアナが画面で動いているのを観ているだけでちょっと泣けるんですよねぇ。


その技術の向上もあったためか、キャラクター達の性格の表現もさらに愉快になっていましたね。


泣いたり怒ったり大騒ぎのアナが、実はエルサの事を強く思っているという表情だけの演技。


しっかりしてそうに見えるのに、意外とポンコツでいっぱいいっぱいなエルサのコミカルさ。


クリストフに関しては何があったんだというくらいアホなキャラクターになっていましたが笑


特にクリストフの歌唱シーンではお腹を抱えて爆笑してしまいました。


会場の他の観客はあまり笑ってなかったんですけどねぇ。なんでだろ。


90’sのPV風な映像で歌い上げる展開はあきらかに今作の映画とのバランスが崩れており、多分後年では「あれはいらなかったよね」という評価に落ち着きそうな気がしますが僕は大好きなシーンでしたよ。

 

練られたストーリー


前作「アナと雪の女王」の時にも思ったのですが、かなり脚本、というよりは[正しいお話かどうか]ということに気を配ってある印象です。


物語上、差別や共生などをテーマとしているし、3つ連続させて同じ展開をツイストさせるような演出をたくさん用意していたりとかなり丁寧に作っているというか。


ですがそこに「Let it go」のような10年に一度の名曲が生まれたりした結果映画のバランスがどうにも悪くなってしまったと思っていて。


今作も同じようなことは目立つなと思いました。


「オラフが消滅する→復活する」というのは前作と明らかに重ねてあるし、復活する理由も前作とは違う理由にしてあります。


映画的にはオラフを消滅させた方が盛り上がるとは思うのですが、そうはさせないというか。


「水には記憶がある」という設定をちゃんと前振りとして用意してありました。


考えれば考えるほど、なるほどしっかり作り込まれたストーリーだなと感心します。


ただその分、ちょっと頭でっかちな点も前作同様目立つとは思っています。

 

公開前にあった懸念


前作「アナと雪の女王」は、エルサを【少数の者】としてのメタファーとして観ることが出来ました。


見た目がアルビノっぽかったりするのが顕著ですが、レズビアンであるとか外国人であるとか障害者などにエルサを見られたわけです。


アナと雪の女王が傑作たり得たのは、今までのディズニー映画のヴィランのように【少数の者は排除する】というエンディングでなく、さらには【障がいを癒やす】というエンディングでもなく、【少数の者との共生を目指す】という終わりにしたことにありました。


エルサは魔法の力を無くすことなく、モンスターとして城を出て行き、そのモンスターのままの能力で城に帰ってきたわけです。


さらには「エルサが呼び起こした冬が終わり、夏がやってきたらオラフは死ぬ」という暗示すらも否定し「少数の者との共生において、何の犠牲もあってはならない」ということからオラフも助かることになりました。


障がい者LGBTの方などは生まれつきの素質を持って生まれてきた方々が多くいます。
言うまでもなく、エルサのように魔女の力を持って生まれてきた少女同様、それを理由として差別されることなどあっていいはずがありません。


ですが、今作「アナと雪の女王2」のキャッチコピーにはヒヤリとする言葉がありました。


「なぜ、エルサに力があたえられたのか」。


つまり「何か理由があっての魔女になった=理由があって障がいを持って生まれた」とも言えてしまう言葉だったわけです。


もしもここで大した考えのない理由づけでエルサの誕生を提示したとしたら、世界中から反発があったと思います。


実際にそこはどう描かれていたのでしょうか。

 

エルサの役割


まずエルサは「人間の男」と「妖精と暮らす民達の娘」との結婚によって生まれた子であるということが判明します。


これは「外国人との結婚」であったり「全く異なる信仰の方との結婚」と言えます。


結果としてエルサは魔法の力を持って生まれてきており、アナは人間として(自国の人間として)、エルサは妖精側として(外国人として)の素質を大きく持つことになりました。


エンディングでは【橋にはたもとが二つある。アナとエルサが架け橋になるのだ】という決着をつけました。


なるほど。


エルサの役割を【架け橋として生まれた】とすることで「少数派のあなたは、人と人とをつなぐ架け橋になる可能性があるんですよ」というメッセージとした、と解釈もできます。


アナと雪の女王2」では前作アレンデール王国だけでなく、世界がもっと広がったという終わり方をしています。


そういう意味ではハッピーエンドと言えそうです。

 

エルサの扱いに対する不満


エルサになぜ力が与えられたのか、については理解できました。


アレンデールと妖精の民達との架け橋になるためです。


しかし、僕はやはり納得はいきません。


それは「なんでエルサがそんなことをしないといけないのか」という理屈としては通らないからです。


ただでさえ今まで「普通の人生」を送れなかったエルサは、映画序盤で「“今”が永遠に続きますように」と懸命に祈っています


永遠なんてないというのは当然ですが、今作のエンディングは人並みの幸せを願い続けた彼女の決着としてはやはりハッピーエンドとは言えないのではないでしょうか。


イジワルな見方をすると、「やはり魔女は魔女として暮らして、自分達のフィールドには合わないよね」という終わりにも見えてしまいます(実際には違っていたとしてもそう誤解をする人は一定数いると思います)。


もっと分かりやすい言葉を使えば、エルサが可哀想だと思ってしまって。


映画のオープニングで家族4人と幸せに暮らしていた様子を見たのもあり、ますます「エルサはもう二度と、いわゆる普通の暮らしは出来ないのだな」と実感してしまいました。

 

その他の不満点


前作と同じではいけないというのは分かるのですが、ちょっと過剰なアレンジが目立ちました。


前作では【魔法の力】が目に見えるのはエルサが使う能力とトロール達の存在の二点に集中していました。


ですが今作では妖精の能力の他にもサラマンダーや巨人なんかが登場します。


特にサラマンダーや巨人は物語上で絶対に出さないといけないキャラクターでもなく、映画としての幅をもたせるためだけに生まれたような存在です。


彼らには、オラフが担っているただのマスコットキャラクター以上の役割というものは特に発見できませんでした。


このへんはスターウォーズ Ep.8での新キャラの扱いにも近いものがありますね。


役割がないのなら新キャラなんて出すべきではないと思いますよ。

 

ポスターの感想


僕は以前のブログで「アナ雪の女王2」をポスターから想像するとこうなる、と書きました。

 

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「このポスターから感じるのは、エルサは前向きな姿勢で未来を見ている。
アナは対照的に後ろめたく何か悩んでいるような雰囲気です。
ですが、別のポスターでは意味合いがかなり変わってきます。
アナとエルサが全く同じポージングで同じ方向を向いて歩いています。
二人の意志は一致しており、団結して前に向かっていくような印象です。
これはどういうことでしょうか?」

と書いています。


結果から言うと、どっちも正解でどっちも不正解でしたね。


自分の危険も考えずグイグイ進んでいってしまうエルサをアナは度々不安に感じていました。


エルサの方は(意外と前作から反省しておらず)、真実を確かめるために一人で暴走モードに入ります。


アナはエルサを見ているのですが、エルサはアナを見ていないんですよね。


この意識の差はポスターに現れているようです。

 

かといって二人で同じポージングで歩くポスターもおかしいというわけではなくて、こっちはこっちで意味が合っています。

 

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スピンオフあたりからそんな感じだったのですがやたらとアナとエルサがラブとラブな雰囲気でしたよね。


今作もそんな感じで「二人でやってろよ!」みたいにイチャイチャするシーンがたくさんありあます。


エルサの方が暴走気味とはいえ、基本的には二人とも共通の目的のために行動しています。


なのでこのポスターもアリですよね。

 

まとめ


色々文句のようなことも書いていますが、アナと雪の女王の魅力ってそういうところだと思いますよ。


前作も「歌は良いけど脚本はさぁ」なんて散々言われた作品でしたから。


こうやってああだこうだ言い合っているうちは「映画を目一杯楽しんでいる」ということですからね。


そういった意味でもやはり今作も素晴らしい一作だったと思いますよ。


ただまぁしばらくスピンオフは控えた方がいいかな。


それでは、また。

 

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